『苦しみ』というもの(メッセージ66)

2008年3月3日

 『苦しみの中にあるからこそ真理を理解することが出来る』と言ったことを、皆様の世界ではよく耳にするのですが、この『苦しみ』というものは、皆様の心の在り方が生み出しているものであり、宗教概念(がいねん)として『善行』と言われているからと、ご自身で納得できない事を無理に行なったために生じる『苦しみ』とは少々異なるので、勘違(かんちが)いしないようにご注意いただきたいと思います。

 納得できないのに行なう『善行』から生じる『苦しみ』は、何時(いつ)まで経ってもただの『苦しみ』でしかありませんから。

 『苦しみの中にある』ということの本当の意味は、霊的視野の狭(せま)さから、ある一つの物事に対して一点からしか観察する事が出来ない状態のことであり、全体像を把握(はあく)できないために苦しみしか感じ取れないという意味で、善いと言われているからと、納得していないにもかかわらず、ご自身で考える事を放棄(ほうき)して、心を欺(あざむ)いて盲目的に活動をしているために生じる『苦しみ』とは全く異なるものなので注意が必要です。

 ご自身の心に素直に従った結果下した決断から生じる『苦しみ』と、ただ盲目的に従っている結果生じる『苦しみ』では、同じように『苦しみ』と言っても全然質の違うものなのですよ。

 ここを勘違いされている方がとても多く、善行には苦難が伴うものであり、それこそが神の御心に沿った尊(とうと)い考えであると、まるで苦しみが善であるかのように錯覚(さっかく)されておられるようです。

 特に、宗教組織に属しておられる方の中に多いようですね。

 ご自身が霊的に成長すれば、何も苦しい事など無く、幸福を感じながら暮らしてゆけるものなのですが、『苦しみこそ喜びである』と、矛盾(むじゅん)した考えを無理やりに納得しようと躍起(やっき)になっておられる方が大勢いらっしゃるのは、何とも滑稽(こっけい)で不思議な光景ですね。

 心から喜べなければそれは『喜び』でも何でもなく、ただの『苦しみ』なのですが、何か勘違いをされているようで、何ともややこしい理屈をこさえて、無理やり納得させようと無意味な事に尽力(じんりょく)しておられるように思います。

 そのようなことでは霊的成長が滞(とどこお)ってしまい、皆様が切望しておられる、『神の御心(みこころ)を理解』することなど到底出来ませんよ。

 ご自身の心に素直な状態でありながら、今まで『苦しみ』と感じていたものから『喜び』を感じられるように変化することが目的なのですからね。

 決して、心が『苦しい』状態でありながら『喜び』を感じる事は出来ませんので注意しましょうね。

 『苦しみは喜び』という言葉が本当に意味するところは何かと申し上げますと、物事には多様な側面があり、ある側面から観察すれば『苦しみ』であったとしても、違う側面から観察してみれば『喜び』がそこに確かに存在しているということなのです。

 どのような物事でも裏と表、光と影のように『全く正反対の要素を含んでいますよ』ということであり、決して『苦しみの中にあることを喜びなさい』といった意味ではございませんので勘違いなさいませんように。

 あくまでも、この世界を取り巻く法則を説明したものであり、言葉足らずであったために皆様が勘違いをしてしまったのでしょうが、正反対の感情を同時にその心に抱き『善行に励(はげ)みなさい』といった、矛盾したことを説いているわけではないのは確かなことと言えます。

 

 少々くどい説明になってしまいましたが、思い違いをされている方が大勢おられるので敢えて強調してお話させていただきました。

 これらの知識が少しでも皆様のお役に立てましたならば幸いでございます。

 このメッセージで取り上げられている『苦しみ』について、私なりに一言で表現すると『無知である』といえると思います。

 苦しいと感じている対象が、実はどの様な存在であるのかが良く分からない為に、その苦しい行為を行なう意義が感じ取れないのです。

 しかし、それまでは苦しいと感じていたその行為が、実は自分自身にとってとても大切な役割を果たしていたと知ったら、その後もあなたはその行為に苦しみを感じ続けるでしょうか。

 むしろ、それはとても大切な行為であるという部分に関心の矛先が変わって、以前ほどは苦しみを感じなくなるのではないでしょうか。

 ですから、苦しみを苦しみのまま受け止めるのではなく、苦しみの本質を理解して解消してゆく取り組みこそが、苦しみへの正しい対処法と言えるのではないか——私はそう思います。

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